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  民主主義について             2019. 6.11

 

 元駐米大使の加藤良三は、2019.3.22の産経新聞正論で、デモクラシーを民主主義と訳したのは明治時代の啓蒙思想家の西周(にしあまね)であると言っている。民主主義という言葉は明治時代からあったということであるが、なにかおかしくはないだろうか。

 デモクラシー(Democracy)の語源はギリシア語demokratiaで、demos(人民 )とkratia(権力)とを結合したものである。実際 -cracyを接尾語とする単語にあたってみればaristocracy (貴族政治)、autocracy (独裁政治), monocracy (君主政治), theocracy (神権政治)のように政治体制を表している。一方、「主義」を広辞苑で引くと、一義として、思想学説などにおける一つの立場、一定の主張 -ismとなっている。二義として、特定の制度・体制または態度となっているが、制度・体制を表すというよりむしろ思想やイデオロギーを表す言葉として多用されているのが現状である。西周ともあろうものが、接尾語の -cracyを主義 (-ism)と訳すはずはなく、実際、西周は「百学連環」で「此政体なるものに二ツあり。一を Monarchy (君主の治)とし、一を Democracy (民主の治)とす」と述べていて、「民主」という言葉を用いているが、デモクラシーを一つの政体として明確にとらえている。

 デモクラシーは正しくは民主政治あるいは人民が権力を持つ政治体制であり、リンカーンのいう、人民の人民による人民のためのガバメント(政府、統治機構)である。その意味において、様々な政治体制があり、米国では大統領制の形をとり、王室のある英国では、議院内閣制の形をとる。イデオロギーの入る余地は全くなく、民主主義は完全な誤訳である。

 日本には、第二次大戦後、GHQにより、一つのデモクラシーがもたらされた。このデモクラシーは、戦後民主主義とも呼ばれているが、基本的に日本国憲法に示された国民主権(主権在民)を尊重する政治体制であり、他に平和主義基本的人権の尊重が挙げられる。その点で、このデモクラシーは日本国憲法を背景にしていると言える。

 誰がいつデモクラシー(Democracy)を民主政治ではなく、democratismの訳語にあたる民主主義とismを呈する言葉に誤訳したのか知らないが、大正デモクラシーといわれるように少なくとも大正時代には民主主義という造語はなかったと考えられる。戦後の日本に君臨したGHQの内部には少なからぬ共産主義者がいたといわれており、また、当時、開放され社会復帰した多くの共産主義者がいたので、この造語は戦後の混乱期に彼らの主導で広められたのではないかと推察される。

 この民主主義という誤訳の最大の問題点は、皇室制度のありかたであろう。共産主義と皇室制度が両立しないというのは周知のことであるが、民主主義も皇室制度と両立しないという論拠を与えるからである。

中学の社会教科では民主主義(思想)の成立過程を学ぶようになっている。そこではロック、ルソー、モンテスキューなどの自由、平等、友愛の精神と3権分立並びにアメリカ独立宣言が取り上げられている。デモクラシーを民主主義と誤訳することにより思想として、自由、平等が語られることになる。万人平等を根本概念とする民主主義には、皇室制度廃止論者の論拠を支える毒が潜んでいるのである。

 このような民主主義という言葉に潜む危険な思想性は、軍事独裁専制国家である北朝鮮の国名が朝鮮民主主義人民共和国であることをみればわかるであろう。今や民主主義はイデオロギーとして、ユヴァル・ノア・ハラリのいう自然法則の新宗教となりつつあり、日本人は、自由・平等というその教義を厚く信仰しているように見える。我々は、今一度、デモクラシー(Democracy)の誤訳の民主主義という言葉には危険な解釈を許す思想性があることを認識し、民主主義という言葉を必要に応じて、政治体制を表す、デモクラシー、民主政治あるいは、民主制に言い換える必要があろう。

 

「ユヴァル・ノア・ハラリはサピエンス全史において、もし宗教を、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系と定義するならば、自由主義、共産主義、資本主義といったイデオロギーも、神を崇拝せず自然の不変の法則という超人間的秩序を信じる自然法則の新宗教といえるとしている。」

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