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  監視と民主主義      

  2020.5.19

 

「武漢コロナウィルスパンデミックで世界はどう変わるか」という問いかけで、日本のメディアは盛んに、欧米知識人に意見を求めている。NHKでは、4月11日にETV特集「緊急対談―パンデミックが変える世界」と題して、ユヴァル・ノア・ハラリ他2名との対談が放映された。ユヴァル・ノア・ハラリとの対談で、道傳愛子キャスターは、感染拡大防止のための国民監視について、「権威主義的・独裁的な監視に代わるものとして民主的な監視が可能だという研究者がいます。民主的な監視は自己矛盾ではないですか。」という問いかけをしていた。それに対してユヴァル・ノア・ハラリは「そんなことはありません。」と即座に否定していた。しかし、なぜ民主的な監視は自己矛盾なのだろうか?対談でなぜそういう発想が湧くのか。その答えは5月11日付産経新聞にみられよう。特集「コロナ/知は語る」で、塩原永久ワシントン特派員が米国政治学者イアン・ブレマーに「権威主義の国は国家権力とハイテクを駆使した監視で感染を抑え込んでいる。人権を重視する民主主義は危機対応で不利か」と問いかけている。それに対してブレマーは「安全保障と人々の自由はトレードオフの関係にある。現在の状況は民主主義下でも監視の必要性が一定程度あることを示しているのかもしれない」と語っている。この問いかけにみられるように民主主義は人権を重視するのである。逆に言えば、人権を重視してこそ民主主義なのである。これがジャーナリストの常識なのであろう。監視は人権を無視し、人権蹂躙にあたるから、民主主義と相容れないのである。道傳キャスターが対談で自己矛盾と口走ったのはそういうことなのである。ちなみにハラリとのインタビューの全容を伝えるとして、2週間後の4月25日に放映された1時間の拡大番組ではこの発言及び関連部分はなぜかカットされていた。

 

 世界広しといえども、民主主義国家は日本だけである。これは間違いのないことで断言してもいい(朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を民主主義国家と考えることについては冗談に過ぎるので、ここでは除く)。 なぜかといえば、欧米諸国はDemocracy(英語、日本語では民主制、民主政治、あるいはデモクラシー、仏語では La Démocratie 、独語ではDemokratie) の国で、民主主義(強いて英語でいえばDemocratism(Democracyの原理または精神、平民主義)であろうか)の国ではないからである。日本人ジャーナリストが欧米人に民主主義についてコメントを求めても、その英訳としてDemocracyという言葉を用いて問いかける限り、民主制に関する答えしか返ってこなくて恥をかくということを知るべきである。ブレマーの言っている民主主義下は、正しくは民主制下である。

 Democracyについては、Democracyの本家本元である米国の国務省出版物に「What is Democracy?」と題した説明がある。以下、この中でDemocracyを定義している第一項と第二項を記す。英文は末尾に記す。第一項は「民主主義とは、市民が直接、もしくは自由選挙で選ばれた代表を通じて、権限を行使し、市民としての義務を遂行する統治形態である。」、第二項は「民主主義とは、人間の自由を守る一連の原則と慣行である。つまり、自由を制度化したものと言ってもいい。」である。Democracyの和訳が民主主義と定着しているので、やむをえないが、一つの思想を表す「民主主義」を一つの政治形態である「民主制」と言い換えれば、これらは非常に論理的で調和のとれた文となる。Democracyで最も尊重されるべきは自由(freedom)であるということがわかる。ここに平等も人権も入っていないということに注意されたい。

 旧文部省著、西田亮介編の『民主主義 〈一九四八−五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』(2016、幻冬舎出版)という本がある。GHQ支配下の、敗戦から3年後の1948年に出版されたこの中学・高校社会科教科書は民主主義を日本に根付かせるのに貢献したものと考えられる。この本の初頭部分には以下のような記述がある。「多くの人々は、民主主義とは単なる政治上の制度だと考えている。民主主義とは民主政治のことであり、それ以外の何ものでもないと思っている。しかし、政治の面からだけ見ていたのでは、民主主義をほんとうに理解することはできない。政治上の制度としての民主主義ももとよりたいせつであるが、それよりもっとたいせつなのは、民主主義の精神をつかむことである。なぜならば、民主主義の根本は、精神的な態度にほかならないからである。それでは、民主主義の根本精神とはなんであろうか。それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。(p21)」 ここでいう人間の尊重ということはとりもなおさず人権の尊重ということであろう。デモクラシーは自由、平等、友愛、その中でも特に自由を理念とし、制度化されたもので、人権というものはさほど考慮されていなかった。民主主義という思想性を惹起させる言葉の中に人権尊重という考えを巧みに取り込み、それを次第に強調することにより誰もが面と向かって反論できないものとして、民主主義という言葉をDemocracy(民主制)に代わって日本に普及させたのである。

 民主主義という言葉で平等主義が強調された結果は、社会主義思想の普及や皇室制度への批判となって顕れてもいるが、ここでは、人権尊重が過度に強調された結果について考える。一つには人権派弁護士の台頭がある。彼らの多くは左翼系であり、中国共産党政権のウィグル人、内蒙古人、チベット人への人権侵害は無視するくせに、少数派(在日外国人や犯罪者など)の人権が守られていない、法律がおかしいと、日本の現行体制を批判する。それに同調して、朝日新聞やテレビなどのメディアが、民主主義にもとるなど、キャンペーンを張って支援する。その最たるものは、在日朝鮮・韓国人に対する指紋押捺廃止であろう。日弁連は、当時外国人の9割以上を占めていた在日朝鮮・韓国人に対する差別だとして、1985年10月19日に指紋押捺制度は廃止するべきであり、外国人登録法の改正措置を要求していく方針の決議をした。これはメディアで人権問題として大きく扱われ、それに背中を押された海部俊樹首相は、1991年大韓民国を訪問した際に調印された『覚書』で、2年以内の指紋押捺廃止を決定し、1993年より指紋押捺は廃止された。韓国では1962年より、北朝鮮の工作員対策に在韓外国人を含む17歳以上の国民全員に指紋押捺した住民登録証の保持が義務付けられていたが、メディアによるそのような報道は一切されず、国民はその事実を知らされなかった。メディアは、米国における外国人永住権・証明書(グリーンカード)にもその裏に指紋が押されているのを知りながら一切、報道しなかった。そもそも指紋押捺制度は、外国人登録をすれば米の配給が受けられたため、登録証の変造、偽造が後を絶たず、また朝鮮半島からの密入国も多かったため、戦後の混乱期に、治安維持の観点から外国人を正確に把握する必要にも迫られて定められたものである(塚島順一:法政大学大学院紀要(2017))。運用は1955年からであった。1993年の在日朝鮮・韓国人に対する指紋押捺廃止後は、当然、彼らによる犯罪、産業スパイや工作活動の取り締りに支障をきたすことになった。

 今、コロナパンデミックを終息させるための国民監視の是非について、議論が起こっている。日本の感染拡大の対策法は、都市のロックダウンや、ITを駆使した住民監視技術を基礎とする中国や韓国と異なり、個人のプライバシーもできるだけ尊重したもので強制性はない。それでも感染者の減少により、5月14日に緊急事態宣言が39県で解除された。それをもってして、日本のやり方は人権を重視する民主主義に則った優れた方法であるといった論調がまかり通っている。日本では、国家緊急権は憲法に規定されてなく、強制的な都市のロックダウンはしようとしてもできなかったし、日本社会におけるデジタル化やマイナンバーの普及の遅れにより、プライバー保護を条件に、中国や韓国のように個人の行動を監視しようとしてもできなかったのが実状であろう。しかし、スマホのGPSによるスプレッダーの行動履歴の把握は、濃厚接触者を特定でき、感染拡大防止に役立つ。特に、キャッシュレス決済の普及は、現金に手を触れないのでコロナ感染予防のためにも必要であろう。米国では、個人の社会保障番号のデータを基に政府が個人の銀行口座に遅滞なく支給金を振り込んでいる。行政システムのデジタル化が進んでいるドイツやフランスでも同様らしい。一方、日本ではデジタル化が遅れているため、多くの人に定額給付金を受け取るための申請書が郵送で届くのは6月以降、振り込まれるのは夏にずれ込むらしい。しかしコロナ禍がきっかけで、日本社会もマイナンバーの普及や、デジタル化が進むと思われる。

 韓国や中国で第一次のコロナ感染拡大を終息させた住民監視技術は北朝鮮の工作員に対応するため、あるいは異民族や反政府組織の活動を防ぐために発達させたものである。しかしこの技術は内政にとどまらず、そのノウハウは戦争に利用できるものなのである。戦争は、弾丸やミサイルを撃ち合うだけではない。もし、中国と戦争することになれば、即座に日本在住の100万人弱の中国人の一部が中国共産党政権の指令の下、工作員と化し、日本の監視の目を巧妙にかいくぐって破壊活動を行うことは十分に予想されることである。日本在住の50万人弱の韓国・北朝鮮人についても同様である。しかし、観光ビサで入国し消息を絶っている中国人を見つけることさえ困難な上、ITの急速な進化によって、工作員の行動はより巧妙化している現状を考えれば、その行動把握及び工作活動の阻止は困難と考えられる。

 

 人権を過度に重んじる民主主義の国では、治安維持を目的とした外国人の監視はほとんど不可能であろう。しかし、過剰な人権重視は国家としての本質を見失わせ、緊急事態下で対応を誤ることになる。いざという時のため住民の行動把握の体制だけは整備しておくべきであろう。日本を民主主義国家ではなく、「自由を制度化した」デモクラシーの国と考え直し、自由な発想でかつ、理にかなった方法でこの問題に対処する術を見出すしか、日本の生きる道はないと思う。コロナ禍によりグローバライゼーションは見直される時期に来ている。国際分業は安全保障の観点から見直され、サプライチェーンも国内に回帰すると思われる。日本は反日を掲げる中国、韓国と、これ以上親しく付き合う必要もない。距離を開けて付き合うべきである。日本に在住する中国人、韓国人の数も治安維持の観点から減じる方向に政策をとるべきである。在日韓国・朝鮮人の3世以降の特別永住権の付与も見直す時期に来ているのではないか。

 米国国務省出版物 About the USAより                      

• Democracy is government in which power and civic responsibility are exercised by all citizens, directly or through their   freely elected representatives.   

• Democracy is a set of principles and practices that protect human freedom; it is the institutionalization of freedom.

 

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